週刊 奥の院 11.17

■ 川崎洋 『悪態採録控』 ちくま文庫 800円+税 

 詩人(1930〜2004)。カバーイラストは川上澄生のもの。
 元版は84年思潮社より。
目次  小説篇  江戸落語篇  上方落語篇  狂言
 「小説篇」をめくっていて目次かと思ってしまった。
泉鏡花――夜行巡査・照葉狂言婦系図」とあって、「木念仁」「因業な寒鴉め」「獣め」「馬鹿め」「しちりけっぱいだ、退け」「平民の癖に」……と悪態の言葉だけが続く。
 ほとんどがワンセンテンスの罵倒語で、樋口一葉漱石ほか数人にやや長いセリフがある。
井上ひさし」は『吉里吉里人』から。飛びぬけて長い。
 

 都会人、都会人と威張ったところで、二代前、三代前ばたずねますと、両親祖父母はみんな田吾作の出でしょうが。都会人はみな目糞。鼻糞を笑って、よっぽど偉くなった様な気で御座る。ちっとばかり横文字だのビフテキだの齧った位で、人間の品位がそう違う筈はねえ。こう言われて口惜しければ、床の間の置物になるような、見事な糞でもひってみろ、でガス。どんなに頑張ったところで、御連中の糞も私達(わたずら)と同じ臭(くせ)い……

 など、短いものも含めて70ページ。
 落語では「貧乏花見」がほほえましい。
 

 そらもう、話にもなんにもなりまへん。百軒長屋、ガラクタ裏、三月裏、六月裏、釜一つ裏、雪隠裏、戸無し裏、……家が菱形(ひしなり)に歪(いが)んでるので三月裏。年中、裸で暮しているので六月裏。……釜一つ裏というのは、七十六軒の長屋で、釜一つしかございまへん。
戸無し裏というのは、戸をみな焚いてしまいよって、戸が一枚もないようになってます。……盗人もめったには入って来まへん。うかつに入ったら、あっちゃこっちゃ裸にしられる。……雪隠裏というのは、長屋が百二十軒で、便所(ちょうずば)が百六十、……糞(ふん)取りで飼うといたれ……、鶯みたいに思われてよる

 豊かな言葉のなかには、美しい表現もあれば逆もある。
 

 悪口はただ「悪い」だけではない、悪口が帯びているダイナミズムが、我々の言語生活に、つまりは我々の生そのものに活力を与えてきたそういう強い思いからわたしは「悪態採録控」を書き続けてきた。いったい、一生のうちで、いっぺんも悪口を言わなかった、というような御仁は、まことにまれなのではなかろうか。あのお釈迦さまだって、
「この罰当たりめ!」
 ぐらいのことは、何べんか口にされたのではないだろうか。
……わたしが注目するのは、実用の道具としてではなく、ことば遊びとしての悪口雑言である。
 その気になって、明治・大正の小説に目を通すと、まことに光彩陸離たる悪口雑言罵言讒謗が息づいていることに気付く。小説は社会を映す鏡というから、その頃は市井に悪態語の練達した遣い手がいたということだろうと思う。なに、万葉の昔だって、人々は悪態を吐いていたに相違なく、ただそれらが文字となって残っていないだけである。はずされたのだ。「美しく正しい日本語」志向は昔から日本人の心情にたゆたっていたと思う。

 今は少なくなったが、「悪口祭」という風習もあった。
 西洋では悪態表現に、神や牝ブタや母を用いる。日本人からすると強烈だ。しかし、川崎は採録の結果、われわれの言葉が強烈ではなくなったのは戦後のことではないか、と言う。
 

 悪口を並べただけで詩と言えるか、人をおちょくるのもいい加減にせえという声が聞こえる気がする。そういう「真面目」な人がわたしは苦手で、そういう方々のことばの土俵に引き上げられたら、わたしはどう申し開きのしようもないが、詩ではなくむしろ譜に近いものですと、やっと言えるかもしれない。悪態語の採譜である。……

(平野)