週刊 奥の院 11.16

今週のもっと奥まで〜
■ 白石一文 『火口のふたり』 河出書房新社 1400円+税
 東日本大震災から3年。賢治(40歳)は5歳下の従妹・直子の結婚式のため久々に福岡帰省。彼は浮気が元で離婚、会社も辞め起業したが倒産目前。
 直子とはかつて肉体関係があった。それもドロドロの。彼女が当時の秘密の写真を見せる。ふたりが抱き合っている背景に富士山のポスターが写っている。

……
「なんで、こんなものをとっておくんだよ」 

 
「賢ちゃんは、あのこと、すっかり忘れたの?」
「忘れてはいないけど、思い出すこともない」
「私のことも? ……私の身体のことも? ……このアルバム見ながら、私は賢ちゃんの身体をしょっちゅう思い出してたよ」
……
「これ、何しているところだか憶えてる? 二人で一緒に富士山の火口に吸い込まれようとしているんだよ。……この日、夜中に賢ちゃんからいきなり呼び出されて部屋に行ってみたら、賢ちゃんすっかりできあがってて、私の顔を見るなり一緒に死のう、一緒に死のうってすんごいうるさかったんだよ。だったら一緒にこのまま抱き合って、あの富士山の火口に吸い込まれちゃおうよって私が言ったの。そしたら、賢ちゃん、今度はノリノリになっちゃって、それいい、めちゃくちゃ面白いよとか言って、あげくこんなふうに二人で記念写真まで撮っちゃったんだよ」
(ふたりの身体が触れ合う)
「怖いか」
 と訊いた。全身の力をすっかり抜いて、俺のされるがままになっていた直子は、
「嬉しい」
 と一言呟いたのだった。
 こうして十五年ぶりに直子の身体を間近に感じて、俺は、あの始めての夜の感触をじわじわと身の内に甦らせはじめていた。
 すでに明かりのない部屋は真っ暗になっていた。隣の直子の顔もはっきりとは見えない。ただ、その分、彼女の息づかいや微かな身体の震えが鮮明に伝わってきた。
「賢ちゃん」
 と直子が言う。
「ああ」
 俺はぼそりと答える。すると直子の右腕がそっと俺の腕に巻きついてきた。
「今夜だけ、あの頃に戻ってみない?」
 直子の腕に力がこもるのが分かった。
……

(「今夜だけ」は、婚約者(自衛官)が戻るまでの5日間に延びる。ところが、極秘任務のために結婚式が延期に。賢治は福島かと想像、直子を問い詰める。富士山が噴火するらしい)
 大地震津波原発事故で深手を追ったままの現状で、いままた首都圏を直撃する富士山大噴火が起きてしまえば、もはや日本経済は回復不能のダメージを受けてしまうに違いなかった。それはまさしく昭和二十年の敗戦以来の国家的危機と呼んで差し支えないだろう。…… 
 俺たちはかつて経験したことのない波乱と混迷の時代に突入する。この先、どのようなことが起こるのかは誰にも予見できないし、実際、巨大地震、巨大津波、巨大噴火が、いつ何時どこを襲ってもおかしくはない。そんな俺たちにとって、今後は自分の命一つを守ることすら容易ではなくなるだろう。……
(直子が問う)
「賢ちゃんはそういうときになっても何もしないつもりなの?」
「何もしないって、何のことだよ」
「だっていままでわたしたちが見てきたあの富士山の姿がもうすぐ見られなくなるんだよ」
 俺に向けた彼女の視線は微動だにしなかった。
「賢ちゃんはそうなっても何も決めないの? もういい加減考えてばっかりいるのはやめて、自分の人生を生きてみようって、そんなふうには思わないの?」
 その強い視線に射抜かれたようで、俺は喉が詰まって何も答えられない。……

 ふたりは手を取り合って、ゆっくり歩き始める。
(平野)
「全国書店新聞 11.15号」アップ。 「うみふみ〜」はあと1回です。
http://www.shoten.co.jp/nisho/bookstore/shinbun/news.asp?news=2012/11/15]