週刊 奥の院 11.15

■ 馬場マコト『従軍歌謡慰問団』 白水社 続き
 なかなか「慰問団」にいけない。まだ「公募歌」のことがある。
 37年7月、盧溝橋事件でいよいよ戦争が本格化。新聞社が「戦争に反射」する。東京日日新聞が社告で「皇軍の歌」を公募。2万2千を超える応募。コロムビアがレコード化。【「進軍の歌」(雲わきあがるこの朝アシタ〜)「露営の歌」(勝って来るぞと勇ましく〜)】
 続いて、内閣情報部が「国家精神総動員」を機に「愛国行進曲」募集。応募数5万7千超。
「見よ東海の空明けて〜」
 詞は応募作から原型をとどめぬほど補作された。
 
 戦地への慰問団も新聞社が先鞭。38年1月「朝日」が吉本興業と「わらわし隊」派遣。
 中国戦線の戦況の深刻化とともに、新聞各社は慰問団を主催することで公募歌以上に売り上げ増を図ろうとした。
 続いて「東京日日」が、中国戦線にふさわしいのは東海林太郎と、彼を団長にする。
 東海林がかつて勤務した満洲

「帰ってまいりました」と背筋を伸ばして挨拶すると、兵士たちの間から万来の拍手が起きた。歌う前に太郎は感無量になった。そう、ここの凍えるような橇の日々があったからこそ、いまの自分がある。…… 
(ロシア国境の町では、「国境の町」を歌いだすと兵士たちはすすり泣き、太郎も何度もつまる)
「皆さまお国のためにご苦労様です。慰問に窺いましたのに泣かせてしまって、慰問にならずにあいすいません」

 東海林は何度も慰問する。藤山には負い目があった。43年2月、ジャワに向けて出発。主催は「讀賣」。現地の要求はインドネシア奥地まで。2ヵ月のスケジュールが組まれていた。さらにオーストラリア軍との最前線チモール島まで。

愛国行進曲」を一郎がアコーディオンで弾きだすと、兵隊たちはばんざいをして喜び、一緒に歌声を上げた。菅沼ゆき子が「愛国の花」を歌いだしたとき、突然その歌をかき消すような、絶叫が響いた。
「空襲! 敵機来襲!」
 日本で聞かされていたより戦局は風雲急を告げていた。ならばこの兵士たちを歌で励ますのは自分しかいない。慰問は慰めでも安らぎでもない。彼らを死の恐怖から一瞬でも立ち戻らせるのだ。自分たちはそのために選ばれた兵士だった。歌は彼らの恐怖を忘れさせる弾丸だった。……

 藤山は海軍嘱託として慰問を続ける。終戦は現地で迎えた。

「あとがき」より。
 本書の登場人物たちは戦後も華々しく活躍した。
 

 戦時中に数多くの軍歌・戦時歌謡をつくり歌いながらも、戦後さらりと平和讃歌を創出することに、違和感をもって、お前たちには思想がないのか、と迫る人々に、彼らは言うだろう。
「右も左もない、自分は時代の子だ」と。
 それは視聴率争いや競合を日々くりかえすテレビ界、広告界においても同じだ。時代というじゃじゃ馬に振り落とされず、長く並走していくには、瞬発力と柔軟性がいつも要求される。
 平時はそれでいい。抜いた抜かれたと喜び嘆き、次なる自分の新たな感覚を駆使して、時代におもねながら、新たな時代の言葉や音をつむぎだせばいいのだから。
 しかし、いったん戦争が起きたときには、「思想なき時代の子」はなんの思慮もなく、やすやすと戦争の手先になってしまう。

 広告の世界で「時代に並走し、時代と添い寝してきた」馬場は、広告、媒体、音楽界をとおして「人は戦争にどう反射し、傾斜するか」を書き続けている。日本の戦争の歴史から学ぶことは、
「人間は戦争に真剣に熱くなる狂気の動物」
 ということ。
「だからこそ自分の内なる本能を自覚し、なにがあっても、いま、戦争を起こしてはならないのだ」

(平野)