週刊 奥の院 11.7

■ 矢野寛治「伊藤野枝と代準介(だいじゅんすけ)」 弦書房 2100円+税 
 伊藤野枝(1895〜1923)は福岡県生まれ。叔父・代準介に養育された。準介(1868〜1946)は福岡県生まれ、最初の妻の実家である長崎の貿易商から海軍の物資調達や三菱造船との取引で成功。野枝を援助し続け、その死後は遺体を弔い、遺児4名を引き取った。頭山満は遠縁。
 著者は1940年大分県生まれ、元広告マン、現在は書評家・映画評論家。準介は妻の曽祖父。結婚して彼の手書き自叙伝「牟田乃落穂」を目にした。自身のことだけでなく、野枝や大杉のこと、虐殺事件度こと、さらに頭山との交流なども記されている。本や映画に描かれている準介や家族についての記述・表現に誤りがあることに気づく。たとえば、準介が「狡猾」とされていたり、準介の長女と辻潤の不倫など。
 家族の葬儀で30余年ぶりに手にした。真実を書かねばと思いつつ年月が過ぎていた。
 準介は長崎の仕事は番頭に任せ、一家は東京で暮して別会社を興していた。野枝は長崎にいたが、東京の女学校進学を願う。妻(野枝の叔母、後妻)は野枝の上京に乗り気ではなかったが、準介は「伸びる木を根元から伐れるもんか」と進学させる。準介は長崎でも東京でも苦学生たちの面倒を見ていた。
 野枝在学中に縁談があり、福岡で仮祝言までしたが、すぐに東京に戻ってしまう。この結婚前後の騒動を彼女が小説にしていて、「準介の謀略云々」と書いたのが、「狡猾」の出所らしい。
 1912(明治45)年、野枝は卒業し婚家に入るが9日目に出奔、東京の辻潤(女学校の英語教師)と同棲する。その年の10月「青鞜」に入る。13年、長男一(まこと)誕生。大杉栄と出会うのが14年。15年「青鞜」の編集長、辻との婚姻届、次男誕生。16年大杉と恋愛関係、「青鞜」廃刊、大杉と同棲。大杉「日陰茶屋事件」。17年辻と離婚。大杉との間に長女誕生。……
 野枝は卒業後も準介に援助を受け、出産のたびに代家の世話になり、子どもたちの面倒を見てもらっている(辻との間に二子、大杉と五子)。
 1923(大正12)年9月16日、関東大震災後の混乱のさなか、大杉、野枝、甥の宗一が憲兵隊に虐殺される。福岡に戻っていた準介はすぐに上京。23日到着。

……未だ戒厳令実施中、容易に入京を許さず。とくに大杉の関係者なるを以て面倒のこと多かりしも、ようやくにして許さる。又特高課員の案内にて大杉邸に至るに、大勢の同志、文士、弁護士、記者等打集い、善後策に付協議中なり、未だ死体の引取すら決し居らず。
(準介は頭山・杉山茂丸らを頼る。翌日、)
……軍法会議に出頭し死体引取を了し、午後、落合火葬場に運びたり……

 殺害10日後のこと。
 遺児たちを福岡に連れ帰り、戸籍を作り、改名させた。末子のネストルは体が弱く、長旅の疲れが重なり、翌年8月死亡、満1歳。準介は死んだ4名のために鎮魂の無名碑を建立した。

 

 代準介という男は育英が大好きだった。若い眼を伸ばしていくことが生き甲斐だった。右とか左とか、大杉栄にも、伊藤野枝にも、頭山満にもその分別はなかった。ただこの国を、この社会を、ひとの住みやすい暮らしやすい世の中にしたかった。

 2013年は虐殺から満90年になる。本書で準介の真実の姿を明らかにでき、家族の無念を晴らすことができた。多くの写真も発表できた。ただ、野枝が長崎の代家に来た時期が明治39年か41年かが特定できなかった。
「明治大正の女たち男たち、そして一瞬の台風の目のような大正という時代の『光と影』」を描く。
(平野)