週刊 奥の院 11.4

■ 色川大吉 『追憶のひとびと――同時代を生きた友とわたし――』 街から舎 1600円+税 
 

1925年千葉県佐原市生まれ、日本近代史研究、東京経済大学名誉教授。
 

 人間、長く生きていると、だれでもいろいろな人にめぐりあう。とくに、わたしは戦争体験がある上に、戦後は農山村での活動や町の商工会での活動、劇団などの芸術的な運動や市民運動、さらに歴史家としての調査活動、新聞、雑誌、テレビなどマスコミでの活動、そのあいまに世界中を旅した国際放浪の経験など、普通の人よりかなり多面的な分野を生きてきた。それゆえ、めぐりあった人も多彩で数も多い。……

 色川にとって懐かしい人、思い出ふかい人、忘れ難い人、貴重だった人、もっと話し合いたかった人たち。平成時代に亡くなった人たちに限った。 
○ 多彩な作家たち  玉城徹 井上ひさし 松本清張 司馬遼太郎藤沢周平 他
○ 忘れられない俳優たちと演出家  高峰秀子淡島千景 北林谷栄 千田是也岡田嘉子 他
○ 個性ゆたかな運動家と映画監督  橋本義夫 小田実鶴見良行 土本典昭 小林伸介 他
○ 独創的な思想家、表現者たち  三島由紀夫吉本隆明 江藤淳 他
○ さまざまな領域の学者たち
○ すぐれた歴史家たち
○ わたしの敬愛する先輩と友人たち
○ 懐かしい四人の医師たち

 江藤淳は色川にとって「もっと話し合いたかった人」か?
 初対面は1981年『朝日ジャーナル』での対論。テーマは「憲法」。護憲と改憲。また、毎日出版文化賞の選考委員でも対立。色川が推薦する作家に江藤ははげしく反対したし、岩波『田中正造全集』を推せば反対。それでも、色川は江藤の「早すぎた死」を惜しむ。
「色川幸太郎と色川武大」。ともに「色川一族」で、もともとは紀伊那智勝浦の平家落人集落・色川郷の出。今も「色川」とつく学校・郵便局・農協があるが、「色川」姓の人間はいない。一族は中世古文書とともに水戸・徳川光圀大日本史』編纂所に移ったのだった。
 幸太郎は茨城県生まれ、人権派弁護士で最高裁判事も勤めた。知り合ったのは昭和48年(1973)頃。
 武大とは『話の特集矢崎泰久の仲介で親しくなった。こちらは本家嫡流。大吉は分家。武大は大吉に歴史を勉強したい、弟子に、と請われたことがある。
「おそらく、かれ自身は南北朝からの色川一族の大河小説を書こうと心に決めていたのではないか……」
(平野)