週刊 奥の院 10.31
■ 季村敏夫 『災厄と身体 破局と破局のあいだから』 書肆山田 1800円+税
装幀 菊地信義
1995・1・17阪神淡路大震災後の文章と2011・3・11東日本大震災後の文章。
神戸で会社経営のかたわら詩を書き、震災資料保存活動、東北の被災地にも足を運ぶ。本籍地は岩手県盛岡、陸奥への思いがある。
「海の見える坂道」より。
イタリア・トリエステの街は坂道が多く海を見下ろすことができ、神戸に似ている。
……
生きることほど、
人生の疲れを癒してくれるものは、ない。
(ウンベルト・サバの詩の一節)
「生きることほど」、「ことほど」という響き、このつぶやき。言葉の微妙なくり出し方。訳は須賀敦子。須賀さんの言葉は深く、やさしく、語りかけてくる。
サバも須賀さんも、人生のつらさやむごさをなめつくしている。どれほどの悲しみ、絶望に直面したことか。うちひしがれたことか。だが、疲れを癒してくれるのは、かなしみそのもの。苦しみの経験こそ、あなたを生かしてくれる。だから微笑み、となりのひとの息づかいを感じ、亡くなったいとおしい面影を抱き、生きること。二人はそうささやく。しずかな激励である。声高なものいいは退けられる。声は低ければ低いほどいい。
すると、どこからともなく訪れる響きがある。海が光る。神戸にも苦難がおしよせた、今後も襲来する。
災厄と災厄のあいだ、そのなかで、こうおもう。人間が起こす問題は必ず人間自身で返さねばならない。そうして、叡智をふりしぼって苦難を分かちあうのだ、そうおもったとき、向こうに、光るものがある。
生活ということ、平凡に暮らすこと、そのことを、根底的に考えなおそうとした。
「心づくし――今できることから」
季村は1・17で大きな被害を受けた。親しい人を亡くした。
「転げまわった。狂ったように。素っ頓狂だった。……もうなにも見たくはない。なにも読めない。書きたくもない。どうなったんだオレタチは、もう、ゆるして欲しい、突如うずくまってむせび泣く……」
夫人が「気分をかえ、出かけてみない」と誘ってくれた。
「鷹取中学校の校庭に突っ立つ脳天からつま先まで、激しい電流が走った。電流に刺し貫かれがたがたふるえた」
避難所のじっちゃんばっちゃんの慎ましい姿に美しさと崇高さを感じた。
とにかく外へ、清水の舞台から飛び降りるようにして飛び出すことだ。顔と顔とをつきあわせる場へ。出会いという波動である。上段に構え、大きなことをおもわないほうがいい。自分に出来る場所から、おもむろに外へ出る一歩を。いつもの通りに淡々と、いつもより少し慎ましく。これが神戸の地震から学んだことである。
東北の人々を思い、詩作する。
「このよのあけむ」
潮が満ちる
一仕事を終えた青年の嗚咽
あの少女が自分の娘だとおもうと
隣でうなずく指揮官は
泣けばいいと肩を抱く
惨劇といっても
液晶パネルを眺めるだけのおまえは
お風呂につかっても
布団の中に入っても
安逸な眠りにおそわれる
夢をみた
川べりの風に吹かれ
じっちゃんの帽子が飛んだ
みごとに光った頭が追いかけたが
帽子はどんどん転がるばかり
ひだまりのばっちゃん眠るばかり
このよのあけむ
ゆふつけ鳥
空の庭へと
やよい童子は駆けていく
詩は絵そらごとかもしれないが、へこたれた人のそば、ほな「歌でも歌(うと)てこまそ」、「泣けるうちがはな」、うなだれる息によりそう、普遍の響きだ。あらためておもうのだった。
(平野)