週刊 奥の院 10.8

■ 司修 『孫文の机』 白水社 2200円+税

孫文の机」とは、ぼくが二十五歳のころ、前橋の家から布団一枚とボストンバック一つを持って出て赤羽稲付町に住み、赤羽袋町にた画家・大野五郎さんと知りあい、一年ばかりの間に聞いた短い言葉であるが、現在でも何かしらその音韻が、ぼくの神経のどこか隅の方でくすぶっていて消えない。
 若いころの大野さんが使っていた「机」は、次兄の和田日出吉から、「孫文が持っていたものだ、大事に使えよ」といわれての「机」で、和田が雑司が谷の古道具屋で買い求めたものだという。
 一九九四年十二月三十一日、高尾にあった大野五郎さん宅をぼくが訪ねた時、「机」の話と同時に見た一枚の写真がある。

 大野五郎(1903−2006)。 http://www.yumebi.com/permOno.html
 カバーの写真、五郎22歳。背景に「第一回洋画展覧会・九知會」というポスターが見える。カバーをはずすと大野の自画像が現れる。装幀は著者。
「机」について、司は会うたびに訊ねたが、あまり大事には思っていない感じで、話が他に移る。

……兄貴から大事に使えといわれてもらったが、練馬のアトリエ村から追い出されて、西荻のアパートに移るとき、前田憲治の弟子で富樫寅平ってのがいたが、そいつにやったんだ。その後どういうことだったか菊池精二から電話で、おれが机をもらったっていってきたな。菊池は彫刻もやっていたから、無骨な机に興味があったんだろう。座り机にしては高く、椅子に座ると低い机だった。


 和田日出吉は大野家の次男で、五郎の12歳上。和田家に入り婿、ワシントン州立大学留学。農業政策を学ぶはずが、ジャーナリストの道を選ぶ。時事新報を経て中外商業新報に。36(昭和11)年2月26日「二・二六事件」現場に一番乗り。青年将校にインタビューした。38年、政財界の支援を受け満洲で「満洲新聞」経営、朝刊夕刊計20万部発行。
 大野四郎は3歳上の兄で、詩人・逸見猶吉。早稲田を出て神楽坂でバー「ユレカ」を経営。兄弟の祖父は、足尾銅山の谷中村村長だった。四郎は、村滅亡のうえに自分は育ち、自由に学んだことを、[苛烈な悪臭の周りに唸る/金蝿]がウンカのようにやって来て体中に張り付く、と感じた。しかし、公害は祖父の責任ではなく、政府と資本家の問題。四郎は「ユレカ」を五郎に任せ、放浪の旅に出る。後、彼も通信社駐在員として満洲に渡る。
孫文の机」そのものの由来ではなく、著者と大野五郎の思い出話から、三兄弟が辿った昭和の歴史を描くもの。多数の作家・文化人が彼らと関わっている。「机」から始まる昭和文化史・社会史の一端。 
(平野)
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