週刊 奥の院 6.14

朝日文庫から
■ 太田静子 『斜陽日記』 740円+税 
 元本は1948年9月石狩書房より。太宰心中死の3ヵ月後。
 219ページに書影がある。花森安治の装丁。
 静子は1913年滋賀県生まれ。父は開業医、代々御典医の家柄。41年、一読者として太宰と出会い、文章を書くことを勧められる。47年2月、彼に渡した日記が、『斜陽』(12月、新潮社)のもとになった。11月、静子は彼の子を出産。未婚の母として育てた。82年没。
 本書は、母きさと共に神奈川県下曽我疎開中の出来事を綴ったもの。

……
 或る夕方、正宗白鳥先生の奥様が、「いまに私たちは、本当に、木の根や草を食べなければならなくなるんですって。」
と仰っしゃった。
「先生が、そう仰っしゃいましたの?」
「ええ。このまま戦争を続けて行ったら、来年のいまごろは、私たちは、本当に、木の根や草を食べて、けもののように、この辺の草はらをうろついているでしょうって。」
「戦争にだんだん負けて行ったら、いまに、きっと、そうなるのですね。」
 私は、ふと、早くけものになって生きてみたいと思った。はだしになって、草の香をかぎながら、けものになって、生きる。静子は、けものになって生きられると思った。けれども、お母さまは? お母さまは、けものになったら、生きられない。
 お可哀そうなお母さま。……

 あとがきで。
 

 十一月に、お祈りしていた通りの、丈夫な、可愛いい女の赤ちゃんが生まれて、うれしうございました。そうして、とても豊かな気持になりました。治子はあのかたにそっくりなので、私は、あのかたと一緒にいるような気持で、ちっともさびしくなくなりました。治子は又、私のお母さまにも、とてもよく似ていて、お母さまの生れ変りのような気がいたします。とにかく、治子と一緒にいると、いつも幸福と一緒にいるような感じです。あのかただって、きっと、びっくりなさると思います。でも、もう、あのかたはいらっしゃらない。六月に、亡くなってしまいました。
「斜陽」も、始めはただ、没落華族の姿を描きたかったのでしょう。べつに、死の用意というようなことはなかったのだと思います。もちろん、一歩あやまれば千仞の谷というような断崖は、私も強く感じていました。けれども、書いていらっしゃるうちに、新らしい世界が開らけてゆくと言うことを、信じていました。お正月に、東京でお逢いして、「世界の進歩のために、ギロチン台にお立ちになる時は、私も従いて行く。」と申しました時の、あのかたのうれしそうな笑顔を、忘れることが出来ません。……

■ 太田治子 『明るい方へ 父・太宰治と母・太田静子』 780円+税 
 治子は17歳の説き「新潮」に『手記』を発表。「斜陽」の母子の生活を綴った。
 貧しくても、不幸ではなかったのでしょう。不幸を想像、というより不幸なはず、と部外者は思い込んでいるのかもしれない。【海】にサイン会で来てくださって、彼女の明るい人柄に接することができてよかったです。
 母・静子は、まだプラトニックだった頃に太宰に相談の手紙を出す。結婚して小説を書くか、小説をあきらめて結婚か、それともあなたの愛人か、と。彼は津軽疎開中。2通続けて電報が来た。

「アワレ ワガ イノチ」
「セイカツノコト シンパイスルナ アトフミ オサム」
 
 母の心はますます明るくなった。
 翌日の手紙には、その「生活のこと」が書かれていた。

  下曽我のあそこは、いいところじゃありませんか。もうしばらくそのままいて、天下の情勢を静観していらしたらどうでしょう。もちろん私はお邪魔にあがります。そうしておもむろに百年の計をたてる事にしましょう。あわてないようにしましょう。あなたひとりの暮し事など、どうにでもなりますよ。安心していらっしゃい。……

 太宰は本当に、母一人の生活のことなど心配ないという自信があったのだろうか。もしその言葉が本当だったとしたら、彼は太田静子とのこれからを明るく楽しく考えていたという気がするのである。

『斜陽』はご存知のとおり、没落華族の話。太宰が静子の日記から設定を変えた。太宰自身、津軽豪農貴族院議員の子という立場。
 両書共 カバー装幀=岡本健+ 装画=三嶋典東
(平野) 
本の雑誌』7月号、表紙をめくるや、『酒とつまみ』かと思ってしまいました。
特集=さらば、笹塚! 住み慣れた町に感謝を込めた「酔いどれ日記」。
同社は神田神保町に移転。
 旬子様の連載、離婚の真相が語られる。題して「夫☆断捨離」。いろんなことがあるんです。
●当店アカヘルの「本屋の日記」(神戸新聞6.12)
 友人・某書店員の結婚のお話。お相手は女性作家。ふたりのお名前は私の口からは言えないけど、知りたい人は聞きに来てちょうだい。しゃべりたくてウズウズしてます。