週刊 奥の院 5.7

■ 黛まどか 編  『まんかいのさくらがみれてうれしいな 被災地からの一句』 バジリコ 1200円+税 
森村誠一との対談も収録。
 巻頭に被災者からの手紙がある。高校の教師で避難所運営に携わった。3.11当日、生徒を含む300名が避難。皆自分の家族や自宅の安否もわからず、自分のことも知らせることができない。
「何も考えられない状況の中で、私は俳句を作っていました。それからずっと、自分を支えるために俳句を紡いできました。……」
 3.11、黛は文化庁の「文化交流使」としてパリを拠点に活動していた。4月帰国して被災地に向かう。
森村に「こんなときこそ、わたしは俳句の力を信じます」と語っていた。
森村は、
「(行くことに)後ろめたさを持ってはいけない。きっとすでに俳句を作っている人もいるだろうから、短冊を持っていきなさい」
と背中を押した。
森村には苦い経験がある。阪神・淡路の後、神戸の合唱団の依頼で震災をテーマに詩を書くことになった。被災現場を見ずに書いた。見たら書けなくなると思った。
「なんで直後に行かなかったのだろう……作家として後の人生の負債になった。卑怯な人間である……」
 森村は黛を信頼して背中を押したのだった。
 
 岩手県山田町の避難所を訪問。子どもたちとお年寄りが集まり、短冊に俳句を書いてくれる。桜や水仙など花を詠んだ句が多い。書名の作品もそのひとつ。

……山田町はこのとき桜が満開でした。明らかに津波を被ったであろう海辺の桜が見事に咲いていました。津波の後に火事もあり、まだ町全体に焦げた臭いが燻っていました。この子は津波や火災を乗り越えた。桜も自分と同じようにそれらを乗り越えた。「うれしいな」と。これ以上の実感はないと思います。子どもらしい素直な句ですが、背景を考えると、子どもらしいなどとは言えない凄絶な一句でもあるのです。

 悲しくても詩歌を詠める。悲しいからこそ詠むのでしょう。
 
 春寒や家も車も流されて
 春津波去りし我が村呑まれゆく
 停電の厨に一人朧月
 原発忌この牛置いて逃げられず
 花も見ず逝く人あまた大津波
 放射能逃れ来し地よたんぽぽ黄
 春の夢さめよ現世の津波
 棺の人置いて逃げると原発
……
(平野)