週刊 奥の院 3.2

◇ 今週のもっと奥まで〜
■ 窪美澄 『晴天の迷いクジラ』 新潮社 1500円+税 
 山本周五郎賞作家。
 鬱、会社も自分も潰れそうな由人(ゆうと)。その潰れそうな会社の女社長。母親の愛に振り回されるリスカ少女。3人は南の半島に流れ着いたクジラを見に旅に出る。
 引用シーンは、由人と恋人ミカの思い出(振られてしまいますけど)。デザイン学校の1年上のミカが由人の服装に苦言。翌日、兄の古着をくれる。付き合って2年目の冬、ふたりで夜明けの街を歩く。太陽が昇り始める。

……
「きれいだね」まるで自分の母親のように、由人が思ったままのことを口に出し、ミカのほうを見ると、ミカがニットキャップを鼻の上までずらし、マフラーで口もとを覆っていた。ニットキャップとマフラーの間から、ほっそりとしたミカの鼻だけが見えて、その先端が赤くなっていた。「どうしたの?」驚いた由人がミカのほうに向き合い、少しだけ強引にニットキャップをめくった。ミカの、大きすぎる目に今にもこぼれそうな涙がたまっていた。
「僕……、何かした?」おどおどした様子で由人が聞くと、ミカは大きく首を振り、べそべそと泣いた。ハンカチ、と思い由人はコートのポケットに手をつっこんだが、そこには丸まって硬くなったティッシュしかなかった。
「あたしも朝日を見て、きれいだと思うけれど、由人がきれいと思っている気持ちとあたしがきれいと思っている気持ちはぜんぜん違う。そういうことを考えると死にたくなるほど寂しくなる」そんなことを言いながら、ミカはすすり泣いた。
「それに、きれいなものを見ると、あと何回こんなにきれいなものを見られるのかな、と思ったりもする」あと何回でも見られるよ、と言おうとした由人の口をミカが唇で塞いだ。唇に触れるだけのキスだった。ミカは唇を離すと、涙のたまった目で由人に笑いかけた。笑う気はないのに頑張って笑っているように由人には見えた。瞬きをすると、左の目からまた涙がこぼれた。ミカとはもう数え切れないくらいキスをしたのに、初めてキスしたみたいな気分だった。
「こんなばかげたことを考えて、こんなふうにめそめそ泣くのは、子どものころから、あたしの病気なの。あたしはたぶん、人よりいろんなことを感じすぎるし、世の中のいろいろなことがあたしには刺激が強いんだよ」ミカが話すたびに、由人の首すじのあたりに、ミカの温かい息があたった。
「そんなふうにはぜんぜん見えないかもしれないけれど」ううん、と、声に出さずに由人は首を振った。
「ミカがいたから、僕、東京が好きになった」由人がそう言うと、ミカは声をあげて泣いた。
……

(平野) 【海】HP更新。「本屋の眼」は切ない「子別れ」、そんな訳がない!
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