週刊 奥の院 9.12

■ 油井宏子 『絵で学ぶ古文書講座 漂流民と異国船との出会い』 柏書房 1900円+税
 5月刊。古文書解読の手引書と思い込んでいた。本書の古文書の内容は〜〜と営業担当氏が教えてくれた。
その内容は……。
 ペリー来航の8年前、1845(弘化2)年にアメリカ船が浦和【間違いです、浦賀です。9.13訂正】に入港した。漂流した日本人を救助して、送り届けてくれた。しかも2艘、計22名。
 記録文書は下総国(千葉県)のある村に残されていたもの(文書名、所在は非公開)、所蔵者の許可を得て公開する。この事件についての史料・論文など関連文書は全国の史料館・図書館などから探しあてた。
 弘化元年12月21日、阿波の廻船問屋の持ち船が阿波撫養を出帆、乗員11名。暴風雨で紀伊田辺に入れず漂流。翌1月13日伊豆諸島の鳥島に流れ着く。2月8日外国船が接近。
「船中の唐人大勢右伝馬江乗込磯江こき付」 外国船の異国人が伝馬船に乗り移り磯についた。
 言葉が通じず手真似・身振りで必死に助けを求め、わかってもらえた。
 弘化2年1月11日に釜石を出た南部船(乗員11名)、これも風雨で次の湊に入れず漂流。
2月9日、外国船一行が「無名シマ」(名前のついていない、もしくは知らない島)で漂流船を発見。阿波の一同が、
「唐人江願入……日本船水主(かこ)助度候ニ付是悲是悲助呉られ候様ニと頼入候」 
 外国船はアメリ捕鯨船マンハッタン号、船長クーパー。事件の史料はアメリカにもある。船は東海岸サウスハンプトンからアフリカ南端、インド洋、太平洋、千島沖、ハワイ、再び太平洋という大航海。小笠原諸島に滞在、出港して4日後に鳥島に立ち寄った。
 クーパー船長、日本の外国船出入り禁止を承知のうえで、漂流者たちを救助し連れ帰った。上総国の陸が見えると、日本人たちは目立たぬ海岸で降ろしてほしいと頼むが、船長は許可しない。江戸に行くと。押し問答の末、2月17日日本人2名が上陸し、村役人に事情を説明。1名は江戸、もう1名は浦賀奉行所に出頭した。幕府は海上警備を厳重にする。評定所の会議はもめる。老中阿部正弘の決断で、特別措置として3月11日浦賀入津を認める。浦賀奉行アメリカ船一行に謝意を述べ、礼として食料・水・薪を大量に贈った。今回は特別である旨も伝えた。
 交渉にあたった通訳は森山栄之助。オランダ語は堪能であったが、英語通じず、手振り・身振り。のち猛勉強して、ペリー来航以降の外交交渉に不可欠の人物になる。
 3月15日マンハッタン号出帆。
 漂流の恐怖、異文化との遭遇、海の男同士の信頼関係、アメリカ人と日本人それに阿波人と南部人とのコミュニケーション、幕府のあわてよう、文書に描かれた外国人(カバージャケットの絵他)などなど興味は尽きない。
(平野)