週刊 奥の院

■ 重松清 澤口たまみ 小松健一
宮澤賢治  雨ニモマケズという祈り』 新潮社とんぼの本
 1600円+税
 

重松清「サハリン紀行  雪の栄浜にて」
 今年5月サハリン島を訪れた。賢治の足跡を辿るため。
 賢治は1923年8月「樺太」に来た。ここの製紙工場で働く友人に農学校生徒の就職を頼むため、というのが表向きの理由。実は前年11月に結核で亡くなった妹を悼むため。
「最愛の妹トシ(とし子)の魂の行方を追い、魂と魂との交信を願って、海を渡ってきたのだった」
 

 重松さんは、サハリンの直前に三陸地方を取材した。
 

 キツイ取材だった。肉体的にも、精神的にも。漁船が突き刺さった友人の家の前で、思わず落涙した。魚の腐乱臭と汚泥や重油のにおいが交じり合った異臭に頭がクラクラした。
 リアス式海岸の複雑な地形ゆえだろうか、岬を一つ越えるだけで被害の度合いはまったく異なっていた。同じ集落でも津波の到達した地点を境に風景が一変する。生と死、明と暗、此岸と彼岸、その両者を分かつものは、結局のところ運不運でしかない。圧倒的な自然の猛威は、同時に、圧倒的な不条理や理不尽をも僕たちに突きつけたのだ。

 賢治の生年1896年は明治三陸津波と陸羽地震、没年1933年は昭和三陸津波があった。樺太旅行直後、1923年9月10日は関東大震災。凶作があった。日露戦争第一次世界大戦大恐慌もあった。
「賢治の三十七年間の人生には、常に、無数のひとびとの悲しみが影を落としていたのだ」
 妹の死を悲しむ〈私のさびしさ〉、『銀河鉄道の夜』にある〈みんなのほんたうのさいはひ〉〈いろいろのかなしみ〉……、重松さんは賢治の煩悶を想像しながら、「賢治ならこの震災の被災者にどんな言葉を手向けるだろう」と思う。

銀河鉄道の夜』は樺太旅行から着想されたらしい。とすれば、賢治は自分の悲しみを含め多くの人の悲しみに向けて物語を書いたと考えていい。

 澤口たまみ「イーハトーブに生きて――賢治の生涯」「きみにならびて野にたてば――賢治の恋」他  盛岡在住の作家。
 小松健一 写真  賢治の原風景を撮影し続けている。コラムもあり。
(平野)