週刊 奥の院 7.20

■ 赤坂憲雄 小熊英二 山内明美
「東北」再生 イースト・プレス
 1000円+税

Ⅰ 3人の鼎談 5.1一橋大学にて
 幻想のラインを撤廃せよ  
 分断された日本と再生への道すじ
 どんな「生のあり方」が可能なのか
Ⅱ 論考  山内「最後の場所(ケガヅ)からの思想
      小熊「近代日本を超える構想力」

赤坂 
 最初に僕のなかに浮かんだのは「なんだ、東北って植民地だったのか、まだ植民地だったんだ」ということです。かつて東北は、東京にコメと兵隊と女郎をさしだしてきました。そしていまは、東京に食料と部品と電力を貢物としてさしだし、迷惑施設を補助金とひきかえに引き受けている。そういう土地だったのだと。
小熊  
……(三月から四月の論壇、知識人と呼ばれる人たちの文章)
「日本の危機」「第二の敗戦」「日本の転換点になる」ということを述べているものが多かった。しかし、被災地からそういうことをいう人はほとんどいない。現場や自分の事情を話すことで精いっぱいだからです。
山内  
東北がどんなに低開発と呼ばれようとも、一次産業で立っていける場所にしたいのです。今回被災した地域は、「ケガチ」と呼ばれる飢饉の頻発地帯です。日常の食料が欠けがちな場所なのです。地震津波も冷害もある。陸上で生きるのも浜で生きるのも過酷な場所です。

 赤坂さんは別のエッセイで、「フクシマはわたしの故郷である」と書いた(『仙台学11号』所収)。今回、前向きに戦う、そこに「希望」が生まれると、福島自然エネルギー特区構想を提案する。
(1)放射能汚染除去の研究・実践、そのための研究施設 
(2)放射能汚染の人体影響を調査、データ蓄積、公開、医療実践と、そのための施設
(3)自然エネルギーに関わるあらゆる研究と実践

 山内さんは、東北には自然・空気・コメ・魚などすばらしい「豊かさ」があると言う。
放射能汚染の不安の中、「この空気と土地と海だけは、未来への責任として、奪還しなくてはいけない」。そのてだては、「ほんたうの農業と漁業」のあり方を模索することだ。

 小熊さんは、
(1) 東北が「米どころ」の地位を確立したのは戦後。戦中の食糧管理制度が戦後も継続され、農民はコメを作る意欲を増大させた。が、国策と東京の需要に応えようとしたとたんに需要低下と減反が始まった。
(2) 労働力の面では、高度成長期の集団就職や出稼ぎから、現在の下請け零細部品工場での低賃金・非正規労働者
(3) 東京への電力供給は1930年代に始まった
 などを明らかにする。
 戦争での総力戦と戦後の高度成長を主な節目にして「国内分業体制」ができた。
 

 震災後には、「がんばれニッポン」という言葉が踊った。だが震災が浮彫りにしたのは、「ニッポン」の一語で形容するにはあまりに分断されている、近代日本の姿である。そして問われているのは、二〇世紀に築かれた経済社会構造と「成功」体験から日本社会が決別し、未来を構想する能力である。それなしには東北の再生も、日本の未来もありえない。

(平野)