週刊 奥の院 6.17


■ 小林エリカ 『親愛なるキティーたちへ』 リトルモア 1600円+税
 一見可愛い文学作品のようですが。
 著者は1978年東京生まれ、作家・イラストレーター。
 思春期を迎えた少女(著者)、「ごくちっぽけで馬鹿げているようなもの」だが、自分にとって「至極重大なことで、とにかく私はしょっちゅうひとりで泣いた」。場所は「本棚と本と埃で埋め尽くされた小さな部屋」。泣き疲れ、「気づくと爪先で本をつまみ上げては、それを開いて読んだ」。医学書、探偵小説、外国語、外国のポルノ雑誌も。
アンネの日記』に出会う。
「学校のこと、友だちのこと、忍び寄る戦争のこと、それから、《隠れ家》へ潜んだこと、気づくと、私は夢中でそれを読んでいて、窓から差し込む光はもうぼんやりと薄暗くなりかけていた」
 学校から帰ると、「泣くためではなく」あの部屋に行き、続きを読む。
「気づくと、私はやっぱり、涙を流して泣いていた」
 アンネは日記を「キティー」と名づけていた。心の友。
「私もいつか、きっと、成長して、彼女みたいに、強く、賢い、女の子になりたい」
 大きくなって、あの部屋でもう1冊の日記に出会う。父・小林司精神科医・作家)の「日記帖」。昭和20年7月から1年分。勤労動員、敗戦、戦後。彼は金沢で祖母と叔父と暮らす。四高、理乙、必須外国語は英・独、戦争中は授業がなく、戦後は食うために働く、勉強が進まず……。
「私は父の日記を読みながら、こんなにもずっとそばにいるはずの父のことを、何ひとつ知らないことを知る」
 父の生まれは昭和4年、1929年。アンネと同年。
 

 アンネはユダヤ人の少女だった。私の父は日本人の少年だった。
 かつて、ユダヤ人たちを虐殺したナチス・ドイツと日本は同盟関係にあった。歴史的な事実を考えると、戦争の中で、彼女は死に追いやられ、彼は間接的に彼女を死に追いやったことになる。
 それと同時に、彼女は私が心から尊敬し夢中になったアンネ・フランクであり、彼は愛する私の父小林司だった。

 著者は2冊の日記を携えてドイツへ向かう。09年3月。ベルゲン・ヘルゼン、アウシュビッツ、べステルボルク、アムステルダムフランクフルト・アム・マイン……アンネの足取りを辿る。自分も日記を書きながら。
 オランダ・フローニンゲンの小さな古本屋にオランダ語版「アンネの日記」が何冊も並んでいた。一番古そうな本を手に取った。1947年6月25日「アンネの日記」はオランダコンタクト社から出版、初版1500部、次々増刷される。著者がこの時買った本は22刷、58年1月の日付。
 

1944年3月29日 水曜日
親愛なるキティー
 ロンドンからのオランダ語放送で、ボルケステインという政治家が言っていました。この戦争が終わったら、戦時ちゅうの国民の日記や手紙などを集めて、集大成すべきだというんです。さっそくみんながわたしの日記に注目しだしたのは言うまでもありません。もしこの《隠れ家》での物語を発表するようなことになれば、どんなにおもしろいか、まあ考えてもみてください。題だけ見たら、読者は探偵小説かと思うかも。

《隠れ家》は記念館となって公開されている。《隠れ家》の住人でただひとり生存したアンネの父の映像が流されている。
アンネの日記を読むと、それは、まるで自分の知っている娘のアンネとは別のアンネのようだった……と語る。
「ただ、ひとつ言えることは、親は子どものことを、本当は何も知らないということです」
(平野)作家・碧野圭さんの「めざせ! 書店訪問100店舗」が更新されていました。気がつかず、すみません。
 http://app.m-cocolog.jp/t/typecast/658455/552111/68503571