週刊 奥の院


黒川創 『きれいな風貌 西村伊作伝』 新潮社 2300円+税

 西村伊作は、一八八四年(明治一七)、紀伊半島熊野灘に面する新宮の町でクリスチャンの両親のもとに生まれた(正確には、母の受洗は出産のおよそ半年後)。幼時、惨事に見舞われて孤児となり、青年時代には、大逆事件紀州組」と呼ばれる人びととともに、あやうく冤罪による受難に遭いかけた人物である(叔父・大石誠之助は、一九一一年[明治四四]、これによって死刑に処せられている)。財産はあった。両親の死のために、この地方で名だたる山林家だった母方の家督を七歳で引き継ぐ巡りあわせとなったからである。たくさん絵を描いた。さらに、写真撮影にも、日本写真史できわめて早い時期からのめり込んだ。米国渡りのバンガロー・スタイルでいち早く自分の家を建て、大正期には家族生活本位の住宅設計家として世を風靡した。また文化学院(東京・神田駿河台)の創立者として、自由主義的な教育方針を戦時下も譲らず、還暦を間近にする身で半年も牢獄に囚われたことでも知られている。

 伊作は、「ツムジ曲がりで、飽きずに一生を通した人」。
 両親を幼くして亡くしたが、地主として一生羽振りよく過ごせる立場だった。バンガローを設計し、アメリカから来た宣教師を見習って「簡易生活」を楽しんだ。日露戦争開戦では、徴兵逃れのためシンガポールへ。単身世界一周の旅もした。叔父が処刑されると、ピストルを所持してモーターサイクルで東京に向かった。それを、「東京に遊びに行きたかった」と自らちゃかす。娘を新宮の学校に入れたくないと、東京に学校を創設する。スケールが常識の外。その学校、関東大震災で焼尽する。番頭が、これ以上資産を崩すなと泣きつくが、学校再建。
 

 きれいな風貌を、西村伊作は持っていた。子どものときから、そのように人にも言われて彼は育った。だが、彼みたいに、いつも何かに夢中な人間は、それを鼻にかけている余裕はない。むしろ、これは、どこか周囲に打ち解けきらない彼の態度と、表裏をなすものとなっていた。

 戦時下、学校は国家によってつぶされる。戦後、国から返されると、「これからはマッカーサーに叱られるようなことをするんだ」。
 勝ち目はなくても、

 自分は日本人の列からはずれて、「異種族」の最後の一人となって、そこにとどまる。伊作はそう言っている。

 著者は、作家・評論家。芥川賞三島賞に複数回ノミネートされている。「鶴見俊輔インタビュー本」編集も。
(平野)