週刊 奥の院


原克 『サラリーマン誕生物語 二〇世紀モダンライフの表象文化論』 講談社 1900円+税

十九世紀、働くものの原像が肉体労働者だったとすれば、二〇世紀、それはサラリーマンだった。いわゆる知的労働者。さまざまな社会の変化や、時代の流れで、いまや都市型の知的労働者が社会の中心原理としてすがたをあらわしてきた。おおむね一九二〇年代のこと。日本で言えば昭和初期のころである。
 都市の発展とは近代化の別名である。住まう場所と働く場所が離れている。そのため毎朝、通勤電車に乗る。こんな単純なできごとも、人類の歴史上かつて考えられなかったことだ。混雑した車内でのマナー、発車時間に遅れまいとする時間感覚、おそらくは一生親しく交わることのない不特定の人波との微妙な距離感覚。こうした、今日ではごく当たり前になっているできごとたちも、二〇世紀になってはじめて、明確なライフスタイルとして誕生してきたものである。

 通勤、職場、外回り、仕事後の様々なつきあい、娯楽など、「これまでになかったような未聞のできごとたち、一切合財を一身に背負い、日々生きてゆく・・・・・・、サラリーマンとは、きわめつきに二〇世紀的な現象なのである」。
「効率化」と言う大義名分で最新機器が導入される。うろたえ、慣れ、使いこなし満足する。便利さを受け入れ、職場環境も快適になる。だが・・・・・・。
 著者は、当時の若きサラリーマンとして「阿部礼二」なる人物を登場させ、彼の日常を追いかける。通勤電車、服装、ラッシュアワー、電車の構造、駅舎、会社での勤務――タイムカード、事務機器(最先端機械から文房具)、書類、昼食、社員食堂・・・・・・。 
 著者の専門は表象文化論、19〜20世紀の科学技術の分析から考察する。本書でも科学雑誌の記事を中心に「サラリーマン誕生物語」を描きだす。
主人公の名「阿部礼二」=アベレージ=標準的、平均的。

「標準的」と言う概念は、十九世紀後半から二〇世紀にかけて、とりわけ優生学において、ひとつの中心的な役割を果すものだった。何らかの「理想」を仮構し、それを「規範化」する。そのとき、あらゆるものが、そこからの「偏差」で測られ、「逸脱」であると判定される。こうした優生学的見立てにとって、統計学的に「平均値」をとるというのは、必須の基礎作業であった。そこにおいて、「標準的」「平均的」と断ぜられた存在は、理想に向かわせる優生学的手立てにとり、もっとも数多く、もっとも手立てを講じて「矯正」しなければならない存在を意味した。つまりは、優生学の最も重要な標的。それが「標準的人間」だったのである。

 標準、平均、均質ときたら、「軍隊」を思い浮かべてしまう私は偏向しているのか? 「教育」もそうだ。「仕事」もそうなんだ。はみ出し者は嫌われる、というより、異質な者はいらないという世の中なのか。機械の効率化ではなく、人間の効率化という話が登場する。

 さて、本書ではまだ言及していない機器や労働環境問題、ビルの構造問題などを、別の本で書いてくださるよう。その時の主人公は女性になるそう。
(平野)