週刊 奥の院


関口良雄さんを憶う』 夏葉社  800円+税
 昭和53年刊行の追悼文集を復刻。編集は、尾崎一雄と山高登。
 尾崎が、関口の随筆を引用しながらその死を悼む。
 関口は癌手術後、本に会いに行く。
「人と口を利くのも大義になり、ひょつとすると今年あたり命を落とすことになるかもしれないと思つた。八月も末になつて幾分痛みも遠のいたある日、ふと家内を誘つて駒場の『日本近代文学舘』へ行くことを思ひ立つた。文学舘には、私にとつて忘れがたい思ひ出の本があつた」
 「忘れがたい思ひ出の本」とは、上林暁と尾崎の本。「蔵書としてしまひ込み、どんなに客がせがんでも売らなかった」本をすべて寄贈した。

「その本達は、十年余の歳月をへだてて、今私の目の前にある。そして、魂の安息所を得たるが如く、『日本近代文学舘』の地下室で静かに息づいてゐるのだ。かつて、私の背中におんぶされ、私の両手に手を引かれる様にして運ばれた本達よ。私はその本達に、また会ひに来る誓つて地下室を出た。」――かう彼は随筆を締めくくつてゐるが、その誓ひを果すことができず、丁度一年ののち鬼籍に入つたのである。

 上林も。

 関口君が死んだ。あれほど度々来てくれたのに、入院中は病院まで来てくれたのに、もう一生来てくれることはないのだ。告別式に行つて来た妹の感慨は、思つたより家が遠かつたことである。そんな遠路を遠しとせず、来てくれたのであつた。(略)
 関口君が初めて私を訪ねて来たのは、二十年近く前、私がまだ元気のころだつた。寝込む直前のことだつたと思ふ。関口君は、そのとき私の本を数冊持つてゐた。サインをしてくれと言ふ。熱烈な私のファンだと言つた。その言葉は死ぬるまで変わらなかつた。しまひにはこちらが、少し甘へてゐるやうに思つた。関口君が来る度に、私の書いたものをほめてくれるものと期待するやうになつた。ほめられないときは、物足りなかつた。(略)
 関口君は来る度に、花を持つて来てくれた。阿佐ケ谷の花屋とは、顔なじみになつた。毎年正月には梅の枝を持つて来てくれた。今年は関口君が来ないので、淋しいだらうろ思つてゐたら、未亡人と息子さんが届けてくれた。蕾だつたが、つい先達て散つてしまつた。

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(平野)