週刊 奥の院 第81号+1の3

佐々木中 『切りとれ、あの祈る手を 〈本〉と〈革命〉をめぐる五つの夜話』 河出書房新社 2000円+税 
10月新刊。一目見て「難解そう……」とパスした。大手書店が積極的に展開してよく売れているそう。出版社からFAXで「11.19 3刷り出来予定」と。そこに著者から本屋にメッセージが。
 

書店員のみなさまへ
 あなたに伝えたいことがあります。
 それは、あなたの仕事は美辞麗句でも何でもなく「天使的な」、正確に言うと「大天使的な」仕事であるということです。
 ルターがそう語ったように、ムハンマドがその試練に耐えたように。遥か未来に向けて、本という糧を――消滅の危機をそれでも超えて――送り届けようとするわれわれの仕事は、無意味ではない。絶対に無意味ではないのだ。それらを多少なりとも論証できたかと思われるこの本を、ぜひ手に取っていただければ幸いです。
 二〇一〇年 菊薫る晩秋の夜に

 ここまで言われたら、わからんなりにでも紹介するのが世間の義理というもの。

佐々木中(ささき・あたる)、1973年生まれ。東京大学宗教史学博士課程修了。立教大学、東京医科歯科大講師。専攻、哲学、現代思想、宗教学。

 目次
第一夜 「文学の勝利」
第二夜 「ルター、文学者ゆえに、革命家」
第三夜 「読め、母なる文盲の孤児よ――ムハンマドハディージャの革命」
第四夜 「われわれには見える――中世解釈者革命を超えて」
第五夜 「そして三八〇万年の永遠」

 私にはムリ。で、いつもの引用で。

「本を読むということは一体どういうことなのか」
 言語学、オリエント学、チベット学の権威、グリューンヴェーデルという学者。1922年、「トゥスカ」という本を出す。紀元前1世紀頃までイタリアにエルトリアという国があった。独自の言語を持っていたが、ローマ帝国に吸収され、その言語は謎のまま。彼はその言語を解読する。その内容は、悪魔や呪術など荒唐無稽な幻想であり性的倒錯。学術的にも常識的にも受け入れられず、狂人扱いされる。

誰もが言うし、誰もが思い当たることですが、翻訳とは徹底的な読書です。一語一句ゆるがせにはできない、裸形の「読み」の露呈です。しかも、未知の言語を翻訳することは、われわれがたとえば英語やフランス語を翻訳するのとは訳が違う。辞書どころか文法すらわからない。全く意味不明な文字の連なりがあって、そこからなんとか意味を掬い取っていこうとする。

だから、こういうことになります。本を読むということは、下手をすると気が狂うくらいのことだ、と。何故人は本をまともに受け取らないのか。本に書いてあることをそのまま受けとらず、「情報」というフィルターにかけて無害化してしまうのか。おわかりですね。狂ってしまうからです。

グルーンヴェーデルが「わかった!」と絶叫した瞬間何が起こったのか。カフカヘルダーリンアルトーの本を読んで、彼らの考えていることが完全に「わかって」しまったら、われわれはおそらく正気ではいられない。

わかってしまったら狂ってしまう。それを正当にもどこかで感じとっているからこそ、読めないように、わからないように、こちらの無意識で検閲しているんですね。だからこそ、それが「読書の醍醐味」なのだということになる。

 
第五夜で、読むこと、書くこと――人類の歴史を概説してくれる。
文学が終わった、もう何百年も繰り返し言われている。ギリシャ古典は99.9%消えてしまった。アリストテレスも一部しか残っていない。0.1%しか残っていなくても、ギリシャ文化はイスラーム文化を育て、ヨーロッパを創り、この世界の礎となった。文字ができて5000年しかたっていない。その間、9割の人間は文盲だった。文字が読めるということは、自明の前提ではない。
古代アテネ識字率は50%と推定、それでも0.1%しか残らない。ゲルマン民族侵入で文化が荒廃して識字率が下がった。大帝とか皇帝でも文盲だった。
印刷術や紙の普及で識字率が上がる。それでも15世紀で5%。16世紀ルターの登場で出版点数が伸びる。17世紀フランスでは「暦」が大ヒットした。18世紀になると読書欲が急激に増大する。フランス革命の影響。ナポレオン登場で革命が頓挫すると、読書離れ。
「この事実こそが革命と本を読むということが固く結びついているということのなによりの証左」。

何故本が読まれないかってみな言うんでが、それは当然ですよ。革命は終わった文学は終わったなんて書いてある本を誰が読むかと言うんです。明示的に書いていなくても、そういうことを匂わせる本を誰が読むか。本を読み続けるというのは、革命を招き寄せつづけることを止めないということです。

帯より。「取りて読め。筆を執れ。そして革命は起こった」「革命の本体、それは文学なのです。暴力など、二次的な派生物にすぎない」
(平野)