週刊 奥の院 第80号+1の2
播磨学研究所・編 『播磨から読み解く邪馬台国 最新考古学事情』
神戸新聞総合出版センター 1700円+税
目次
魏志倭人伝を読む 上田正昭
播磨のムラと倭人伝 小柴治子
前方後円墳あらわる 岸本道昭
倭国の乱と播磨灘 森岡秀人
卑弥呼共立の政治勢力 寺澤薫
渡来人、播磨へ 山田清朝
巨大古墳の時代 櫃本誠一
「宮山古墳」の奇跡 松本正信
播磨発「装飾付須恵器」 井守徳男
ヤマト政権への道 石野博信
卑弥呼、邪馬台国、そして播磨 中元孝迪
“邪馬台国は播磨だった!”という本ではありません。
「邪馬台国論争」を整理し、西暦190年頃から290年頃の「播磨」について、同時代の考古学遺跡を調べ「播磨」(播磨灘を挟んだ阿波・讃岐も含めて)と古代王権の関係を考える。
その時代の古墳では、姫路の丁瓢(よろいひさご)塚をはじめ、たつの市や加古川市に古墳群がある。規模や出土品から、本書の立場は「畿内説」で、「播磨」には邪馬台国を中心とする勢力グループのなかで有力なリーダーがいた、と推測する。
上田先生が“論争”を整理してくれる。
いつから始まったのか。「日本書紀」が神功皇后を卑弥呼に相当する人物とみなして、これが畿内説の最初。飛んで江戸時代、新井白石が畿内説から九州説に転向。本居宣長は畿内説。明治43(1910)年、東大の白鳥庫吉が九州説、京大の内藤湖南が畿内説で大論争。今年はその論争が始まって100年になる。
なぜ、この論争に決着がつかないかというと、唯一のテキスト「魏志倭人伝」の記述があいまいだから。
上田先生は、「倭人伝」だけではなく、他の中国文献、考古学の事実と照らし合わせて検討すべきと。先生は畿内説だが、単純ではなく、前期邪馬台国は九州で、後期は畿内に移ったという「東遷説」をとる。
(平野)