週刊 奥の院

パンとペン

週刊 奥の院 第76号の4
黒岩比佐子 『パンとペン 社会主義者堺利彦と「売文社」の闘い』 講談社 2400円+税 
 幸徳秋水と堺は、「萬朝報」「平民社」を通じて盟友であり、「共産党宣言」の共同翻訳者であり、「日本共産党」創立メンバー。秋水が「大逆事件」で処刑された後の堺について、あまり知られていないのではないか?
 

明治の社会主義者たちにとって、平和と言う理想に燃え、反戦を唱えた平民社時代が美しい二年間だったとすれば、明治末期から大正期の売文社時代は、暗闇のなかで息をひそめつつ、迫害のなかですごした苦闘の八年三ヵ月だったといえる。

 著者は、堺の一生の中でこの売文社時代にもっとも惹かれる、と言う。
 堺が「売文社」の看板を掲げたのは1910(明治43)年12月24日。9月に出獄してから、「売文」――週刊誌「サンデー」に匿名で探偵小説翻訳、コラムを担当、新聞連載も――で暮らしを立てながら「大逆事件」被告たちの面倒を見ていた。翌年1月の処刑後、遺体を引き取り、荼毘に付し、遺族を訪問している。
 12月31日「東京朝日新聞」に広告を載せる。新聞・雑誌・書籍の原稿製作、英・仏・独・露他外国語の和訳、和文の外国語訳、演説・講義・談話の筆記、趣意書・意見書・報告書等々文章の代作および添削など。今の編集プロダクション、翻訳エージェンシーの元祖。
 広告で仕事が来た。帝大生・出版社・学者から外国語翻訳の依頼、小説の代作、祝辞の原稿など。
 堺は元高等小学校の英語教師、獄中でドイツ語独学。大杉栄は語学の天才で、入獄のたびに外国語を習得したといわれるほど。エスペラント語も含め7カ国語を使いこなした。高畠素之は英・独ができ、山川均と荒畑寒村も英語翻訳をてがけた。
 

大逆事件後も社会主義者への監視と弾圧は続き、かつての同志はちりぢりになり、荒畑寒村のように要人暗殺を企てる者もいれば、山川均のように故郷に戻って逼塞した生活をする者もいれば、森岡永治のように自ら命を絶つ者もいた。そのなかで、堺は血気盛んな青年たちの暴発を抑えつつ、仕事を与えて生活の面倒をみようとしていた。堺以外に、誰がこうした役割を果せただろうか。

 「売文」の他、ルソーの自伝やディケンズの小説を出版。1914(大正3)年1月、機関紙『へちまの花』を発行。月刊のタブロイド紙で、かつての同志や運動家が共鳴し購読が増える。これを真似したニセ「売文社」が各地に登場したほど。『へちまの花』の名称についてはなんとも言えないエピソードが語られている。本書をお読みください。
 さて、『へちまの花』に自社広告、売文社のロゴマーク――パンにペンを突き刺したイラストが掲げられている。
 

ペンとパンの交叉は即ち私共が生活の象徴であります。私共は未だ嘗て世間の文人に依って企てられなかった商売の内容を茲に御披露するの光栄を担ひます。

 「売文」事業は広がる。競馬界大物の天覧本を作成、旅行案内書や『内外文豪美辞名句叢書』を刊行する。
 しかし、社内で路線の違いが露わになってくる。アナーキストの大杉と荒畑は既に離れていた。高畠の国家社会主義が勢力を増し、19(大正8)年8月解散。堺と山川は『社会主義研究』を創刊して、マルクス主義の旗を掲げる。
 戦後、この間の事情を木下順二が戯曲にし、劇団民藝が公演した。題して『冬の時代』。木下が描いた最後の場面。
 

そろそろ冬の時代は終りになって、今度は山を下りてうって出る覚悟をつくらなきゃならん。その日のために、いわばぼくはこの売文社をやってきたようなものだ。その日、皆がいっせいに心を合わせてうって出ることができるために。(略)――間違いのないことは、とにかく人間自然の感情を圧し殺す社会制度は必ず改革しなきゃならんということさ。――いま生きている人たちのためにも、死んでしまった人たちのためにも。――そのために闘って行かなきゃならんということさ。それでやがてわれわれが死んだら、また若いものがやってくれる。われわれと同じような体験をくり返しながら、しかしわれわれより少しずつは利口になりながらね。――さあ、行きましょう。

 29(昭和4)年2月、堺は東京市会議員選挙に当選、31年全国労農大衆党の委員長就任。9月満州事変。12月脳溢血で倒れ療養生活に。33年1月23日死去。かつての同志で臨終を見送ったのは荒畑寒村だけだったという。
 著者黒岩さんは明治の出版文化を研究して、次々発表している。今回も力作。ブログはこちら。
http://blog.livedoor.jp/hisako9618/
 本書について、
「やるべきことは全部やりおえた。だから、この『パンとペン』に関しては、どんな評価をされても気にならないだろう。遺書のつもりで、魂をこめて書いた本なのだから」
(平野)読み手もしっかり読まなければ。