週刊 奥の院

酒と本

週刊 奥の院 第70号 2010.8.27
◇グレゴリグレガリグレゴロガリ……青山さん、8・25はるばるご来店。在庫本すべてにサインをしていただいた。
河谷史夫
『酒と本があれば、人生何とかやっていける  本に遇う?』彩流社 2200円+税
 こういうことばを吐いてみたい、とは思いはしないけれど、似合う人はいるのだろう。
 著者は本年朝日新聞社退社。社会部、編集委員論説委員を歴任。94年から7年書評委員、03年からコラム「素粒子」担当。本書は雑誌『選択』に10年間連載した、本をめぐるエッセイ。?は12月予定。
 父上も新聞記者、家にはマル・エン全集やら文学全集が並んでいた。仕事仕事の父と年頃の子はギクシャク。
「日頃ろくに口もきかず、めったにいなかった家にいるときには、いつも本を開いている父に対して、他にすることはないのかといった目で冷たく見ていた。何の趣味も持たず、酒を呑むことと本を読むこと以外は無為のわたしも、我が子からそんなふうに見られているだろう」
 年を取ると、親に似てくるというが、その通り。
 自分で自分の面を見ることはできない、鏡に映して初めて見る。石川淳の「士大夫三日書を読まなければ理義胸中にまじはらず、面貌にくむべく、ことばに味がない」を引く。本を読むことは自分を鏡に映すことに似ている、と。
 また、長田弘の詩、「本を読もう、もっと本を読もう、もっともっと本を読もう……人生という本を人は胸に抱いている。一個の人間は一冊の本なのだ」を引く。人間とは、本を読む動物なのだ、と。
さらに書く。本を読むことで、友ができた、人並みの難儀を知り言葉を支えにしのいできた、くずおれそうなとき辛うじて踏みこたえることができた……。
一冊一冊をじっくり読み込んできたからこそのことばの数々。
取り上げる本は、古典、時代小説、ミステリから、詩集、ノンフィクションも。

坂口恭平
『ゼロから始める都市型狩猟採集生活』 太田出版 1200円+税
 1978年熊本生まれ、建築家。04年路上生活者の住居を収めた写真集『0円ハウス』(リトル・モア)、08年『TOKYO 0円ハウス0円生活』(大和書房)刊行。09年、自らも多摩川で0円生活を体験。
 小さい頃から「家」に興味があり、机に毛布を被せて「巣づくり」、小学生時代に建築家を志す。
「しかし、そうした巣づくりは、現代の建築家の仕事ではなかった」
 道から外れる。いろいろあって、「お金をもらって家を建てるなどという仕事自体が間違っている」という結論に至る。関心は路上生活者に向かう。
「彼らは、都市の中で唯一、自力で『家』や『仕事』を、つまりは『生活』を発明しながら生きていると思えたからだ」
 その住まいは、合理的・快適なものだった。夏涼しく、冬暖かく、「起きて半畳、寝て一畳」。
 問題はある。土地の「不法占拠」。しかし、土地所有に疑問もある。地上は地上で誰かが所有し、地下はどうなのか? どう売買されているのか? 地下水は所有できるのか? また、公園の水は税金を払っていないと飲んではいけないのか?
「『人間みな平等』なんてことが言いたいわけではない。ただ、本来所有できないはずの土地や水が誰の手で管理されており、それらを使わせてもらうために一生働き続けなければならない、という今のぼくらの生活は、ちょっとおかしいのではないかと思う」
 本書は、東京の路上生活者から聞いた話の記録。生活、仲間との関わり方、お金の稼ぎ方、健康維持、人生に対する態度など。当然いろいろな人がいるが、多数が路上生活の面白さを語る。
「ゴミ」は重要な都市問題・環境問題だが、彼らは「リサイクル」が実は経済活動であることを見抜いている。だから買い手がつくアルミ缶だけを集める。社会は「環境」を言いながら石油資源に依存し続けているから、ペットボトルを回収しても金にならない。また、小さなソーラーパネルを買い自家発電をしている人がいる。1回の充電でテレビが5時間見られる。鳩の糞が落ちてもすぐふける。一般家庭のソーラーは大きすぎて、目も届かず、故障・修繕などコスト高。さらに彼らは、大地震が起きた時の高層マンションを心配する。自殺者の多いことにも危惧。「なぜ相談に来ないのか、金なんかなくても生きていける」。
(目次) 1 衣服と食事を確保する 2 寝床を確保し、パーティを組む 3 生業を手にする 4 巣づくり 準備篇 5巣づくり 実践篇 6都市を違った目で見る
 単なる「路上生活のすすめ」ではないこと、わかっていただけます。

中野美代子
『中国春画論序説』 講談社学術文庫 1150円+税
 著者は『西遊記』研究で著名。専門は中国文学、図像学。本書の元版は2001年作品社刊。
 日本の春画と中国の春画を比べてみる。
 日本。空間的には「四畳半」。構図、色彩、男女の表情や姿態、背景の屏風や枕、茶碗、ふとんの柄、懐紙などなどまで細かく描写。さらに、男女の会話やよがり声の「書入れ」もある。PやVのクローズアップまであり、密室のいやらしさが充満している。江戸の枕絵師と彫師・摺師の技術の高さだ。描いている者・見ている者の視線を、著者は「褻視的」と呼ぶ。
 中国。場面は広大な庭園やそこの亭(あずまや)。室内であっても奥に長い廊下が続いていて、描く者の視線は上から。男女のポーズは不自然というか不可能なもの。肉体の描き方には性器以外に性差がないし、表情が味気ない。少しもいやらしくない。しかし、「あきれるほどのあけっぴろげな空間におけるあけっぴろげな性戯を描いている」。そこには、木や石や花が性器の象徴として描かれているという。
 文学では、『金瓶梅』に見られるように、その表現は「肉麻(ろうまあ=いやらしくてむずむずする)」だそうで、ではなぜ、春画はいやらしくなくてむずむずしないのか? 
 著者の考えは、
「それは、春画だからである。いや絵画だからである」
「中国の絵画はかくあるべしという規範的風景を描かなければならない」
「絵画は風景デザインの領域」
「中国人は、山水を『自然』ということばで呼ばなかった。山水風景はかくあるべきものとしてデザインされ、かつ風水思想も加わって、人文的景観のデザインへと発展していった」
「デザインとしての庭園を、きわめて卑俗なかたちで、しかしきわめて論理的に描いたのが、中国の春画
 難解だ。例えば、庭の見える屋内で交わっている男女。部屋には屏風があり庭園が描かれている。男女にとって屏風の絵と庭の風景どちらにリアリティがあるかというと、絵の風景なのだ。庭園は現実で近くにあるが、元は自然を模したマガイモノ。絵の方が、絵であっても自然のリアリティがある。男女は本来なら絵の中の風景で戯れたい。では、この風景が実際にあるとしたら、二人はそこでできるか? できるはずがない。二重三重の虚構で春画は成り立っている。
 あくまで庭園や山水で戯れるという空間的願望を描いているだけ。性の象徴が描かれているのは、老荘とか房中術とか身体観とか中国的感性。房中術において「養生」のための性行為という側面があり、あらゆる「体位」を描く。全裸で性器が描かれていても、浮世絵的細部へのこだわりはない。「肉景(経)図」という身体内部の「気」のめぐりを描いた図がある。肉体内部にも山水という空間デザインがあるのである。

◇今週のもっと奥まで〜
■吉沢華
『写真館』 幻冬舎文庫 495円+税
 美大生繭子、TV局志望就活中。証明写真を撮るために有名スタジオに。カメラマン東條が助手可憐を撮影しながら○○。見てしまった繭子はお仕置き。
 以下紙版にて。
(平野)