週刊 奥の院 第34号 

奇蹟の画家

 週刊 奥の院 第34号 2009.12.11.
◇神戸の本
■後藤正治『奇蹟の画家』講談社・1700円+税
 ボクシングやラグビーなどスポーツを得意にするノンフィクション作家、夙川学院大学教授。
海文堂の前社長・島田誠と親交が深く、大学の講座にもゲストで呼ぶほど。ある時、島田がこれまで出会った画家たちの絵を紹介。その中の1枚の絵に、後藤さんは「思わず息を呑んだ」。
「暗紅色の濃い色調の肖像画である。少女とも聖母像とも聖像画(イコン)とも映る。人物は目をつむり、なんともいえない深みのある表情をしている。何かを呼びかけているようでもある……」
本書執筆のきっかけである。画家の名は石井一男。独り住まい、定職についたことはなく、新聞を駅に届けるアルバイトで生計を立て、絵を描いた。
石井と島田の出会いが海文堂ギャラリー。石井は時々ギャラリーに来ていた。当時(’92年)島田は小冊子「インフォメーション」にギャラリー情報や身辺雑記を書いて配布していた。石井が読んだなかで、線を引いている箇所がいくつかある。
《……眠れぬ夜、お気に入りの絵を見てふと手を合わせたくなるぼくと、資質的に似たものを感じます》
《……自分以外の人で勤まることは引き受けない。自分しか出来ないことをやりたいと単純に思っています》
《……作家の生き死にに拘わること、精魂込めた作品に拘わることを毎日やっているわけで……》
《(死もしくは障害が残るというような大病をして)死は誰にも、富者にも貧者にも、賢者にも愚者にも平等におとずれること。そして自分は自分以外のものに生かされているという自覚……》
この人なら「ひょっとして自分の絵を観てくれるかもしれない」。
石井49歳、体調不良、鬱的な気分、「絵というものにすがるように想いを込めてきたが、それも断続的であったし、観衆のいない舞台で一人芝居をしているといえばそれまでだ」。
島田に「絵を観てほしい」と電話する。「6月24日」という日付を、石井は覚えている。
島田が著書『無愛想な蝙蝠』に記している。
《数日して、画廊に、白いシャツに紺のズボンをはいた小ざっぱりした格好で、キャリーに絵を一杯くくり付けた、顔色の悪い男が現れて「石井です」と名を告げた。緊張して堅くなって、よけいに変に咳きこむ彼をうながして、ケース一杯詰められた百点近いグワッシュ(水彩絵具の一種)を、時間がかかるなと、溜め息をつきながら手に取る。二枚、三枚と繰っていくうちに、今度はこちらが息を呑む番だった》
数日後、島田がスタッフと共に石井を訪ねる。近くの食堂で昼食をするが、話は弾まない。
「島田さん、死というものをどうお考えですか……」
答えにつまりつつ、島田は話題を変える。
「身体のことはまず医者にきっちり診てもらいましょう。それと、今年の秋に個展をやりましょう。これからはサインを入れてくださいね」
個展は大成功、作品はほぼ完売し、石井に約100万円が渡される。しかし、石井は島田が世話役をしている「文化基金」に全額寄付すると言う。
「石井さん、誠にありがたいお話ですが、この基金はあなたのような人の援助のために存在している基金でありまして……」
画商の喜びについて、島田が語っている。
「(石井は)49歳までまったく孤独のなかで生きてきて、発表する機会もそのつもりもなくて、ただ生きる証として絵を描いてきた。無私というのか、奇跡的な存在ですよね。しかも、その後も生き方を微動だにせずに貫いてやってこられた。そういう画家とともに歩みつつ、その絵を大事に思える人々に手渡すことにおいていささかお役に立てたとすれば、これはもう画商冥利につきることです」
石井のこと、島田と画家や友人たちのこと、石井の絵に感銘を受けた人たちのこと、それに海文堂のこと、大切に売っていきたい本であります。
■「石井一男展」12/12(土)〜27(日) ギャラリー島田にて。(078)262−8058 http://www.gallery-shimada.com/
◇人文社会
服部文祥『狩猟サバイバル』みすず書房・2400円+税
 「ヤブの斜面に沈み込むように身を横たえて目を閉じて……」獲物を待つ。服部の待ち伏せポイントは、鹿の往来が多いと睨んだケモノ道の交差点。この時点で狩猟3シーズン、仕留めた鹿2頭。多いのか少ないのかは素人には判断不能だが、本人が「二頭の鹿を仕留めただけ」と書いているから、少ないのでしょう。
 この日、鹿を撃つが逃げられる。「はずしたら、かならず獲物が立っていたところを見に行け」と師匠に教わっていた。そこには血痕、肉片。足跡をたどって500メートル。トドメの一撃を放つ。
 「仕留めた獲物に近づいていくときというのは、いつだって、居心地のわるい感じがする。野生動物と人間の距離感を越えていかなければならないからだろう。身体の下敷きになって不自然に曲がり、水につかっている鹿の頭を斜面に乗せた。撃ち殺しておきながら、そんななぐさめにならないことをしてしまう」
 その場で血抜き、解体にかかる。内臓の処理をすると「哺乳類を殺したという事実が、五感を通して、のしかかってくる」。
 ケータイもライトも持たず、テントもコンロもなし、米と調味料だけで山に入るサバイバル登山家。年間80〜100日山に入っている。雑誌「岳人」編集部勤務。‘96年にカラコルムK2登頂、だが疑問を持つ。
 「圧倒的な日本の経済力を使って26歳のガキが登りにくる。『金払って人に荷物背負わせて山登って、なにが偉いのか』。地元の人たちはきっとそう思っていると感じた。果たして装備、食料、情報に頼らず登れるのか。そう考えたら自信はなかった」(毎日新聞12/4夕刊)
 獣を狩って食うことについて。
 「肉を食うなら自分で殺さないと。だが現代人の多くは不快な感情を伴う部分を金払って人に任せている。殺しを金で買うってやばいでしょ? (中略)山に入れば、命を食べないで生きているものは存在しないと実感できる」(同上)
 生きることの覚悟を考える。
海野弘『スキャンダルの世界史』文藝春秋・3200円+税
 スキャンダルとは? 
 「一口にいえば、ころぶことである」
 「バナナにすべってころぶと、それを見ていた人は、おかしいので笑う。その笑いは、純粋におかしいからでもあり、馬鹿だな、という軽蔑を含んだ笑いでもある」
 「主役」=ころぶ人がいて、「事件」=台本、舞台、装置があって、それを見てゴシップ化して噂を広める「観客」がいる。この三要素で成り立つ。
 「主役」はなるべく高い地位の人、偉い人でなければならない。古代ギリシアの神々からローマ皇帝、中世キリスト教ルネッサンスの偉人、戦争の英雄、政治家、芸能人まで、汚職あり、疑獄あり、何より性の問題あり。
「事件」=バナナの皮や落とし穴など、その出来事は攻撃され、笑われ、〈諷刺〉となる。
「観客」は不特定多数、他人の恥をのぞきたい、さらに噂話を伝え増殖していく。
「人の恥をのぞくのは、人間の深層をのぞき、人間の謎を解きたいという欲望であるかもしれない」
「人間はころぶものだ。だからこそ人間なのである。ころばないのは神である(いや神だってつまずくかもしれない)。スキャンダルは最も人間的なものかもしれない」
海野さん、第32号で紹介した『神戸の花街・盛り場考』(加藤政洋)の書評を神戸新聞(12/6朝刊)に書いてくださった。
「私の好きな街〈神戸〉の成り立ちを、モダン都市、盛り場というキーワードでいきいきと再現してくれる本が出たのはうれしいこと」
海野さんはこれまで2回も海文堂でトーク会をしてくださっている。言うなれば、強い味方・サポーター・恩人・同志……。
かましいにもほどがありますが。
◇お知らせ、うれしいことが。
 「WEB本の雑誌」で、名古屋の書店員さんが海文堂のことを紹介してくれています。読んでください。
清水さん、ありがとうございます。我が店長が京の山人グレゴリさんにもお伝えしました。「きっかけを作ったのがグの本」と喜んでくださっています。
http://www.webdoku.jp/cafe/shimizu/
今回「もっと奥まで〜」なし。紙版にもありません。念の為。
(平野)